こんにちは、終末期作業療法士の藤田です。
10月に入りました。
30日には講習会があります。ご興味のある方は是非ご参加ください。
kanwakea-fujita.hatenablog.com
ふと、自分の臨床において、所謂「アクティビティ」を使うことって少ないなぁと感じました。
時々「折り紙と化する仕事でしょ?」と言われることがあります。
私自身手工芸が趣味なこともあり、行うこともありまし、やっていて楽しいんですが、個人的に「手作業」には落とし穴があるなぁと感じることがあります。
それは「果たしてそれは患者様が望んだものなのか?」と言うことです。
以前、こういった言葉を耳にしました。60代の男性
「もう歩けないことは分かるけど、このまま動けなくなりたくない、年寄りと風船つき合ったり、折り紙をすることで人生を終わらせたくない」
作業療法は作業を用いて患者様の心身両面の機能維持、向上を図るものではあるのですが、その前提として患者様の生活歴、ナラティブ(物語)、スピリチュアリティ等々そう言ったものをきちんと評価した上で適切な作業を提供するものですので
評価に合わせて介入を行う…所謂「普通のリハビリ(この表現はおそらく適切ではない)」と同じです。
歩くことに自身の残りの人生を賭けたい方に対して、折り紙を折らせることは、
上腕骨骨折の方に歩行練習を行うようなものです。
我々リハビリ職の人間は身体機能はしっかり評価できますが、こういった生活歴の評価は苦手なのではないでしょうか?
そして終末期医療におけるもっとも難しいであろう分野はここなのだと思います。
逆にとある患者様。70代女性
「残りの時間、何かをしたい。歩くのではなくて、『私らしいことをしたい』」
この方には折り紙を行いました。この作業についてどう思われたのかは永遠にわかりませんが、少なくとも事実として最期までリハビリはさせていただけました。
この方にとっての「私らしいこと」が折り紙だったのかは不明ですが、対話の中で得られた(評価した)情報をもとにリハビリプログラムを提案した形です。
本来そう言う形になってしかるべきなのに、ついつい「良かれと思って」が先行することが多いのではないかなと感じます。
「患者様の言いなりになってはいけない」という言葉も聞きますが、大切なことは「対話の中で決定していく」事なのだと思います。
少し尖ったことを書くとすると「医療者が患者様を支配したい」関係にならないこと、当たり前の話ではありますが、例によって
「『何かしてあげたい』の精神が『弱者はこうでなければいけない』」になってしまわないように…注意していきたいところです。
作業の場では取り扱うものが者なだけに特に関係性の変化が生じやすい(患者様を幼児扱いする場面に遭遇したことは非常に多いと思います。)からこそ、対話と評価、適切な作業の立案につなげていきたいところですね。
作業についてはまた詳しく書きたいと思います。
終末期リハビリテーション講習会はこちらから
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藤田。