終末期リハは「優先順位が低い」のか?その中で終末期医療者ができることは?
こんにちは終末期作業療法士の藤田です。
日々の介入の中で患者さんの数が増えてくると、患者様への介入時間や頻度を減らさざるを得ない場面によく遭遇します。
そうなると優先的に減らされてしまうのが我々終末期医療の分野なのではないでしょうか?
「優先順位をつけなければならない」という言葉を聞かされますが、リハビリにおいての「優先順位」とはなんなのでしょうか?
少なくともその「優先」中に「死に向かう方々」は入っていないのだろうと思います。
われわれ作業療法士の終末期医療の分野には「心理的ケア」であったり「喪の作業」等があり、それはマニュアルにも記載されている事です。
残念ながら医療全体に終末期リハの概念は浸透していません、これは医療者間の認識の問題であったり、コストの問題であったり、単純に「感情的に気に食わない」であったりします。
そしてそれが常識であると言うことも多く実感する機会がありました。
その背景には「死」がつきまとうこと、そして「やることが単純であること」があげられるのかもしれません。
まず、「死」は敗北であるという認識はやはり根強いです。リハビリの特性上「治したい」という考え方になることは非常に多く、言い方が難しいですが治ることは「勝ち」であり、その逆は「敗北」私にはいまいちピンとこない事柄ですが、できれば「敗北」がわかっていることはしたくないでしょう。
人の命に勝ち負けなんかないと思うんですけども、それはそれぞれの考え方を肯定する必要があるのかなと思いますし、そう言った考え方に癒されている方も多いようです。
そして「やることが単純」とみなされること
病状が悪化するとマッサージやタッチングでの介入が主となります。
実践されている方は分かると思いますが、この時間ってとても神経を使います。
終末期医療における一番重要な時間なのだろうと思っています。
現に先日逝去された患者様に対して、この時間を用いてご家族と共に最後の作業療法を行いました。亡くなられた後御挨拶に行くと「あの時間、一緒に散歩できてよかったです」と仰っていただきました。(患者様がはどう思われたかはわかりませんが。)
それくらい「最期の時間」は我々の領域の仕上げの時間、自宅退院される患者さんであればADLの共有くらい大切なものです。
残念ながらこれに関しても「学校でやるわけではない」のでそれぞれが臨床の中で知るものです。
そこにフォーカスを当てていない場合、当然「意味のない消化試合」と捉えてしまうでしょう。もしくはそう捉えないと医療者自身の無力感の実感に繋がってしまうのかもしれません。
それ以外にも理由を挙げればきりがないですが
とにかく現代リハビリテーションにおいて
「終末期リハは一般的な(?)リハビリテーションとの乖離が大きく、優先度が低いもの」とみなされていると捉えて良いのかもしれません。
治療により元気になり自宅に帰って生活をすることと、ご自身の時間が保証され、遺された者の痛みを少しでも和らげ、亡くなられて自宅に帰ること。
どちらも同じだと思うのは私だけでしょうか?
残念ですが、
終末期医療における患者様は、残り少ない時間であるにもかかわらず、医療者側の認識によって「やりたいことをはく奪される可能性が高くなる。」
という結論になってしまいます。
非常に悔しい話ですし、我々がやっていることに対しての侮辱だなとも感情的には感じてしまいます。もちろん色々な要因が絡んでいて「仕方がない」ということも承知の上で。
そのような中で我々終末期医療に携わるリハビリテーションの人間に何ができるのか?
次回は私の私見について述べたいと思います。
こういった疑問を持つ医療者の方がいらっしゃいましたら、ぜひ意見交換しましょう。
次回意見交換会は6月です。
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