同年代の方の死を経験して感じた「自分勝手な感情」
こんにちは、終末期作業療法士の藤田です。
間もなく6月に入ります。私の経験ですが、この時期体調を悪くされる方が多い印象です。
患者様もそうですが、医療者も具合が悪くなる時期です、ご自愛ください。
さて、私の方は先日初めて「同年代の方の患者様」と関わる機会を頂きました。
現在臨床10年目、33歳の私ですが、同年代の方の担当は初めての経験でした。
正直「何をすればよいのだろう」と、若干恐怖感を感じながらの介入。
会話の中で自分の身の回りのこと(例えば自分の家族や、趣味、休日の過ごし方、等)を話してよいのか?
治る、治らないの病状について共有をしてよいのか?
ご自身の今後について、語り合ってよいものなのか?
等々、今まで自分がやってきたことを躊躇してしまう…そんなバイアスが自分にかかった状態での介入でした。
とはいえ今思い返せばこれは「年齢で人を分けている」行為、言い換えれば「差別」と捉えることもできる(おじいちゃんはどっちにせよもうすぐ死んじゃうのだから気が楽…ともとれる感情)ですので、自分の中に差別的な感情が伴っているのだと感じます。ここは反省すべきところなのかもしれません。
その方が先日逝去されました。色々な(自分勝手な)感情が伴いながらの介入でしたが
結論としては「いつも通りにやった」それだけです。
「動きたい、リハビリ室でやりたい」その言葉を伺いながら、医療者としてのリスクの共有と、現状機能の共有。そのうえで何を行っていくかの検討。
ご本人の感情を否定しない。あくまで希望に添えないのは病院のルールでの制約であり、個人の感情を貶す行為ではないということ。
できる限りの「双方の納得」に留意して介入を進めたつもりではあります。
患者様は一度もぶれることなく、疼痛とHOPEを天秤にかけ、その場その場で選択をされていたと思います。
その背景には「他者に迷惑をかけたくない」があったように感じました。どれだけ具合が悪くても私に対して「わざわざ来てもらってありがとう、ごめんね、手間がかかって」と話されていました。
結局ぶれているのは私たち医療者だったのだろうと思います。
医療者目線で「やってあげたいことができない辛さ」は常に感じていました。
トイレへの移乗が徐々にできなくなってきたときにスタッフから「何かできないか?」と相談を受けましたが、結論から言えば「何もできておりません」
患者様は私に対してトイレの改善を希望されませんでした。「リハビリ室に行こう」それだけでした。
そう言う意味では「ご本人の希望に沿った」とはいえるのかもしれませんが、私自身が「できない事を聞かないでほしい」と言う行動をとっていたのかもしれません。
向こうで患者様が私をどう思っているのか、それは永遠に分りません、例によって「自分勝手な解釈はしない」様にしていきたいと思います。
こうやって書いていくと亡くなられる方の「年代」はさほどやることには関係しないのだなぁと感じます。
結局は医療者自身のナラティブのなかで「かわいそうに感じるか、どっちにしても死ぬ人と感じるか」
とても醜い感情の中で患者様を値踏みしているのかもしれません。
この方に学ばせて頂いた数多くの事柄を感じながら、日々介入をしていきたいと思います。
ひとつだけ自分の都合の良い解釈をさせてもらえるとしたら、亡くなる数時間前、半分鎮静の状態の患者様がここ最近聞かれなかったほどのとても大きな声で
「先生、ありがとう」
と言ってくれたこと。
このやりとりに関しては、自分勝手な解釈を許してもらいたいと思います。
次回意見交換会は6月です。
この患者様とのエピソードも話していけたらと思います。
是非ご参加よろしくお願いします。
kanwakea-fujita.hatenablog.com
藤田。