「最期の時間にみんなで写真」その時間は誰の為?
こんにちは、終末期作業療法士の藤田です。
先日、長きにわたりお世話になった患者様が逝去されました。
私が今の職場に入社してすぐに関わり、退院から終末まで、関わらせていただいた方でした。
私自身が講習会をすること、その方とのリハビリのエピソードを話していきたいことを快く了承して頂き、応援して頂いた方でした。
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亡くなる前日、Faの方に呼ばれました。患者様は朦朧とした様子で、私の言葉がどこまで伝わったかはわかりませんが、講習会がうまくいったことを伝えると腕を上げて「よっしゃ~」と言ってくださいました。
そして、関わったスタッフの皆で写真を撮ることとなりました。
最期の時間なのだから、できるだけ笑顔で…なんて思って撮影し、翌日亡くなられました。
その出来上がった写真を見て思ったこと。
「この『写真を撮る』行為ははたして誰の為だったのだろうか」
その写真の患者様の顔は、私の知っている患者様とは違う顔でした。4年間、苦楽を共にした方と同じ顔の様には正直、感じませんでした。
当たり前と言えば当たり前です。
そして、いい顔をした我々医療スタッフとご家族様。
おそらくこの行為は
「患者様との離別を受容しきれない家族や医療者…他者の為のもの」
なのだろうと思いました。患者様の良い時間なのではなく、我々第三者の癒しの為。
遺された我々がまた生活を行っていくための儀式のようなものなのだと感じました。
ある意味では、医療者や家族のためのリハビリテーションともいえるのかもしれません。
こういった作業は終末期医療の場面ではよくあります。
しかしそれに対して我々医療者は「患者様のために良いことをした」と錯覚してしまうことも多いのではないでしょうか?
我々の癒しのために患者様が残りの時間を使わさせていただいたことに感謝の気持ちを持ちたいと思います。
しかし、考えるべきことは、これら「別れを乗り越えるための作業」は
必ずしも「患者様のための行為」ではないのだろうということです。
最期の時間をスタッフや家族に囲まれて患者さんは嬉しかった「かもしれない」
最期の時間を第三者のエゴに付き合わされてご本人は向こうで怒っている「かもしれない」
勿論真実は誰にもわかりません、唯一答えを知っている患者様は向こうに行ってしまわれたのですから。
わからない以上、医療者の都合の良いドラマチックな目線だけで物事は判断できないこと、他人の人生や感情を完全に理解することは100%不可能であること。
そして我々医療者が患者様を「弱者」とみなし、他人を操作することに酔ってしまう事についても考えていかなければなりません。
そして他人の分からない感情を恐れ、悩みながら関わっていくことこそが終末期医療を行っていくうえでの最低条件なのだろうと思いました。
こういった話をすると、よく「藤田さんはよくやったよ、患者さんはきっと喜んでいるよ」と励まされることがあります。
そういう肯定し合うことを悪いとは思いません。必要なことだと思います。
しかしその会話は誰の為だろう?
医療者目線は重要ですが、その場の気休めでその場にとどまることに、患者様は喜んでくれるのだろうか?
永遠に答えは出ませんが、それでも人の命と、生き方と関わりたい方は是非意見交換しましょう。
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藤田